私事だが先日「モテ」に関する、コラム集を発売した(編集部注:新潮社刊『モテるかもしれない。』)。
だが最初に出版社側から「モテ」というテーマを聞いた時、正直「今時モテとか、もういいだろう」と思っていた。
個人的に、二次元の男のことで忙しく、金や時間、クレカや内臓がいくらあっても足りない状態であり、三次元の男にモテている暇などない、というのもあった。
だがそれ以前に、世間的にも異性、または同性やそれ以外(コンプラ対策)にモテなければ意味がないという価値観はすでにオワコンのような気がしたからだ。
昔であれば「娯楽はセックスと回覧板のみ」、さらに「結婚できない奴はなにか問題がある」という風潮も今より根強かった。
そんな世界観でモテないというのは一大事だったと思う。
しかし最近は、異性または同性(後略)との交際以外にも安価で楽しい娯楽が山ほどあり、生活面においても自立できていれば、モテて食わせてくれる相手を捕まえなければいけない、ということもない。
つまり、もうモテなくてもたいして困らない時代なのだ。
そう思っていたころが私にもあったのだが、結論から言うと「場合によっては困る」場合がある。
モテないだけならいいのだが、人間は周りから「ぞんざい」に扱われ続けると「自己肯定感」が爆下がりしてしまうのだ。
「ブス」と言われて怒りが湧くのは「このドブス様に向かってブスとは、舐められたものだ」というプライドを持ち、自分に自信があるからである。
それがなければ、なにを言われても、本当のことだから仕方がない、言われる自分が悪い、と非暴力服従主義な助走段階で疲れるガンジーみたいになってしまうのだ。
そうなると周りも「こいつにはなに言っても大丈夫」となってしまい、ますます扱いがぞんざいになるという悪循環となるのだ。
またぞんざいに扱われ過ぎると、たまに優しくしてくれる人間が現われても、喜ぶどころか「こいつなにを企んでいやがる」と敵意を向けるようになってしまう。
せっかく好意を向けてくれた人を詐欺師やカルト教団扱いする人間がモテるはずがなく、最終的に男女問わず、ただの「嫌われ者」と化してしまうのだ。
それを考えれば、モテという名の「他者からの肯定」が不要とはとても言えないものがある。
しかし「モテ」と「容姿」は切り離せず、容姿というのは生まれた瞬間に決まってるため、己の財力でビジュアルを改造できるころには「やめて、もうあいつの自己肯定感はゼロよ」状態になってしまっている人もいる。
しかし「モテ」というのは時代によってわりと流動的なものであり、どんな顔が「美形」かという評価はその時代の美意識によって変わるものである。
つまり、美形にならなくても、自分の顔が美形という「設定」の世界に行けばモテるのだ。
「俺じゃなくて設定の方が変われ」と言えるほど自己肯定感が高い人間なら、モテる必要もなさそうな気もするが、今回はそんな、自分にチート能力を与えられたのではなく、世界の設定の方を変えられた男の話である。
『逆転異世界で嫁き遅れSランク女冒険者たちに迫られています』
これが今回紹介する作品だ。
漫画家兼コラムニスト。2009年に『クレムリン』で漫画家デビュー。近年は切れ味するどいコラムでも人気。『ひとりでしにたい』『負ける技術』『生き恥ダイアリー』など著書多数。一日68時間(諸説あり)のツイッターチェックを欠かさない。
株式会社KADOKAWA発のアダルトライトノベル。300点を超える官能小説をデジタル初出で配信中。全作品が電子書籍なのでBOOK☆WALKER、Amazon、DMMなどいろんなサイトですぐ購入できます!
(編集部注:全年齢向けです。FANZAでは配信しておりませんのでご注意ください)